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April 09, 2008

花とともに…

四川先生のおばあさまが他界された。
つい二ヶ月ほど前、さあやが生まれる二日前に、満100歳を迎えられた。
天寿、であろう。
普段は介護施設にご入居されていたのだが、昨年末から体調を崩されることが多くなり、施設と総合病院との行き来を月に1度はご経験されてらした。
誰もがいよいよかと覚悟を決めても、何度も何度もご回復なされて皆を驚嘆させた末の、大往生だった。

私が嫁いだ時にはご実家で義母が介護していたのだけど、認知症を患われてからずいぶん経ってらした。
覚えていただけることこそなかったけれども、長きに渡って一緒に暮らした四川先生のことは覚えてらして、その嫁だ子どもだということに、毎回新鮮に驚いて祝福してくださるのが、ありがたかった。
国語の先生をなさってらしたおばあさまは、お話するときにはシャンとして「今どこに住んでいるの、あなたの実家はどこなの、そう、横浜でひとりで大変ね、がんばりなさい」などと仰っているのだけれど、夜にお休みになってからは、隣室に寝ている私達にも「おかあさん、おかあさん」と呼ぶ声が、声を包む静かな夜ごと届いていた。
既にこの世では会うことの叶わないひとを、そうと知らずに呼ぶ声は、いっそう悲しい響きがした。

子どもの世迷言なのかもしれないが、不思議なことがあった。
三日ほど前、子ども部屋で一緒に遊んでいたはるが突然、「あ!」と言って押し黙り、「おばあちゃんの声が聞こえたね」と言った。
「なんて言ってた?」と聞いたら、「帰るよ、って言ってたね」と答えた。
不思議に思って、どこのおばあちゃんかと問うと「となりのおばあちゃんだよ」と言う。
うちは角部屋で、しかも隣室は昨年来空き部屋である。
もしかすると、おばあさまが、曾孫たちに会いにいらしたのかな、とふと思ったところだった。

別々の現象を勝手に想像力で結び付けているだけなのかもしれないが、結びつける理由も、ほんの少しある。
私自身のことなのだが、私が満1歳になった翌日のこと、夕方突然に火がついたように泣き、なにをしても泣き止まず、尋常ならざる様子だったのだそうだ。
常にはそんなことがなかったので、母はとても不思議に思ったそうだ。
夜にJR(当時国鉄)から電話があり、東京に出張していた曽祖父が心不全を起こして亡くなったことを告げた。
山手線の中で亡くなったまま何周もしていたらしく、周囲が異変に気づいたときにはもう完全に、心臓も呼吸も停止していた。
死亡推定時刻は、まさに私が尋常ならざる大泣きをしていた時間だった。

他ならぬ自分についてそういう話を聞かされて育ったので、この世の中には、目に見えぬ不思議な「つながり」がちゃんと存在しているのだと、思わずにはいられないのだ。

(余談だが、最近はるは不思議なことをよく口にする。
「鬼がいる」と言い出し、どこにいるか聞いてみたら「パパのところに鬼いるでしょ」とベッドで寝ている四川先生のことを指差した。こわいだったか黒いだったか、そんなあまり有難くなさそうな鬼がいると言っていたと思ったら、起きてきた四川先生が「風邪ひいたみたいで具合が悪いんだ」と言ったので驚いた。
体調が悪いから鬼がついたのか、鬼がついたから風邪になったのかはわからないが、鬼と身体の不調がぴたりと符合したのにびっくりした。昔のひとたちが、病は鬼や悪霊が引き起こすといったのは、あながち迷信じゃなかったのではないか、とも思った。単に、私たちの目に見えなくなっただけで。
子どもの目には、自分達には見えなくなってしまった世界が見えているのだと羨ましくさえあった。)

桜の花が、春の嵐にあらかた散らされた明くる朝の、しらせだった。
仙台は、ようやく花が開花した頃なのだという。
私たちも仕度をしてすぐに北上する。
既に散った花を、もう一度咲くところから眺めるのは、まるで時間を遡るようで奇妙なものだ。
しかしながらそれは、なにかひとつの現象についての再生のサインのようなものかもしれない。
いのちはつづく。
おばあさまは、肉体からも時間からも自由になられて、ようやくご自身のおかあさまに会える。
それを前に、この世での血の行く末を見に、はるとさあやに会いにいらしたのかもしれない。
こちらでは花は散り、別の場所では同じ花が咲く。
おばあさまをなぐさめるべく、あるいは遺されたひとたちをいたわるべく、花は優しく映るだろう。
それに、天からの桜の眺めは、格別美しいに違いない。

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