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March 01, 2008

雪洞に。

Sn390745_0001_0001弥生の始めといえば、桃の節句。
さあやの初節句にあたる今年、実家から母が、雛人形を持参して飾り付けに来てくれた。
もともとは、私が産まれた時に、母方の祖母が贈ってくれたお雛様だ。

母方の祖母は、なかなか粋なひとだった。
当時仙台の一等地に構えていた染め物屋の大店・たまごん(玉紺?玉今?)のお嬢様で、幼少のみぎりには、伊達家(仙台藩主の家系)のお姫様たちと遊んだと聞くし、日本画を趣味にしていて、歌舞伎を観るのが好きだったそう。
従姉妹が力士の妻君であったので、時々両国や浅草に遊びに出かけたりもしたそうだ。
今私がそういったものに心惹かれるのは、祖母のDNAだろうと思う。
とはいえ、母が産まれる直前に伴侶を亡くし、女手ひとつで、婚家先の温泉旅館の女将として四人の子を育てあげ、並ならぬ苦労をした人でもある。
どんな場面にあっても万事控え目で、いつまでも少女のように可憐なひとだった。
細く小さな身体のどこにそんなバイタリティーが秘められていたのか知れないが、誰かにもあたたかい人だった。
だいすきな、人である。

Sn390768その祖母が、顔立ちやつくりにこだわってこだわって、選んでくれたお雛様。
子どもの時には「きれいだな」程度の印象だったけれど、今改めて見ると、優美な仕草や柔らかな表情、なかなか見飽きないものだ。

もっとも、変な錯覚もある。
もしかしたら毎年(サボった年もいくつもあったけど)箱を開ける度に驚くのは、お雛様の方じゃないかと思うのだ。

考えてみれば、お雛様は毎年変わらぬ姿なわけだが、こちらは年々歳をとる。
私の悪い癖として、飾ったばかりの数日を除いて、インテリアの一部のように、そこにあるのが当たり前の風景になってしまうものだが、時折ふと、視線を感じてあたりを見渡すとそこにお雛様があったりする。
オカルト的な恐ろしい視線ではなく、なにか優しげな、見守られているような、心地の良い視線なのだ。
だいすきだった祖母の眼差しのような。

もともとお雛様のベースになったのは、持ち主の変わりに災厄を引き受ける厄払いのヒトガタ。
現在も「流し雛」などの習俗にその名残を見ることができるけれど、そこから派生した「健やかに育つように」という願いから、家庭に飾るようになったのは、江戸期のことだという。
(私は「結婚できるように」という願いのもと、お雛様を飾るものだとずぅっと思っていたので、この事実を知った時とても驚いた)

そう考えてみれば、年に一度の対面に、持ち主である女の子の成長を、お雛様がつぶさに見ているというのは、あながち素頓狂な妄想でもないだろう。
今年など、主が変わって新しい小さなひとがお雛様の主になった。
お雛様自身、新しい家、それに新しい主に、驚いていたっておかしくはない。
器物は100年経つと命を持つと言うが、ひと形のものはもっと早いんじゃないだろうか。

だとしたら、やはりお雛様は、戸惑いや喜びを、表情にこそ表さないものの、じいっと見ているのかもしれない。
そしてこの先、例えばさあやが自分の子どもにこのお雛様を引き継ぐ時にも、同じように暖かく、見守ってくれているのかもしれない。

Sn390749余談になるが、彼もお雛様に興味津々。
でも、日ごろの教育のせいか(?)「あっ、歌舞伎だ!」と喜んでいる…(笑)。
流石に人形自体には興味を示さないのだけど、彼の格別のお気に入りは、右端に写っている牛車の牛。
ここでも乗り物狂らしい。

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