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November 19, 2007

いのちのこと。

近頃、いのちというものについて、考えることがある。
哲学的考察だとか、宗教的な思索のような難しいことではなくて、ただ、うすぼんやりと考えている。
コーヒーを飲みながらふと、とか、お鍋にかけた野菜が煮えるまでの間にふと、とか、そういうとぎれとぎれの思考の中に、そのテーマはよく登場する。

どちらかというと、いろいろなことに「物語性」を読みたがる癖があるためか、生来の妄想癖のせいか、そのとぎれとぎれ思考はあちこち素っ頓狂な方向にも飛んでいく。
「運の強弱」という曖昧な表現に妙に納得させられることがあるように、もしかしたら人の生命には、肉体の強度以前に強さの度合いがあるのだろうか、とか。

考えるようになったきっかけは、自分のお腹にいる子どもと、ふたりのおばあちゃんのこと。
このブログをご覧くださっている皆さんがご存知のように、胎児にはいろいろな「暮らしにくい」状況であったはずなのだけど、今のところちゃんとおなかにはりついていてくれている子ども。
四川先生のおばあさまは、来年で100歳を迎えられる。
昨年から施設でお暮らしになっているけれども、とてもお元気でいらっしゃる。
私の祖母は、北京から帰ってくる直前に死の淵に立ったのだけれども奇跡の生還を遂げて、ピンシャンしはじめた。一時は延命装置のお世話にもなり、誰もが口にこそ出さないけれど、ひとつの結論を頭に思い描いていた。その状態からの回復は難しいだろうと思っていたのに、みるみる回復し、年齢的に厳しいだろうという手術もこなし、今は普通の食事をしてリハビリをしている。意識もはっきりしている。

哲学でも宗教でも医学でもないけれども、こうなってくると、なにか現代の科学ではとききれない「謎」のようなものが、身近にあるように思われてくる。
その最たるものが、いのち。
ある時突然に、場合によっては不条理に、ぶつりともぎとられてしまうことさえある「いのち」。

人はどこから来て、どこへ行くのか。
肺活量みたいに、強さに差があるものなのか。
宗教で言うように「徳」を積むことでそれが変わるのか。

答えもなかなか出ないから、考えっぱなしで、深めることもない。
あ、野菜が煮えた、と思ったら、そこでストップしてしまう。
つきつめて考えていたら、それこそ命がいくつあっても足らないかもしれない。

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Comments

だから、昔から多くの賢人たちが悩んでいるのです。しかもいまだに万人の納得のいく結論がないのです!!!

Posted by: 城西のGG | November 20, 2007 at 11:20 PM

ほんとうに!
いつか解明される日はくるのでしょうか?
でも謎というのは、とけないからこそ魅力あるものなのかもしれませんね。

Posted by: zok | November 21, 2007 at 10:22 PM

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