« はなす筋肉、かく筋肉。 | Main | 四川先生、大陸へ。 »

April 24, 2007

大正という時代。

大正から昭和初期という時代が好きだ。
洋の東西を問わず、この時代にはなぜか、とても強く心惹かれる。
こと日本では、洋の東西が合わさって熟成された、とても素敵な文化がある。
銀座にともったガス灯の下を、モボやモガが最新式の洋装で闊歩した時代。
食卓に、ライスカレーやコロッケが登場した時代。
洋風の生活が、日本の文化をより活動的にしていった時代。

そして何より、乙女向けの雑誌が次々と創刊され、彼女たちが少女雑誌に夢中になって、うっとりと胸をときめかせた時代――。

その雰囲気を体感できる美術展が今、いくつか開かれている。
弥生美術館「蕗谷虹児展」
東京都庭園美術館「大正シック展」

大正という時代は、女性がその力を認識して、魅力的に輝いてきた時代でもあるかもしれない。

それまでは、美しい人というと、遊女や芸者を思い浮かべる人が多かったようである。
一般の人たちが「美女」といわれて思い浮かべる人たちの変遷を、少し辿ってみよう。
(少し時代をさかのぼる。薀蓄になるので、面倒な方は飛ばして読みすすまれることをおすすめする。)

江戸の頃。
ご存知のように、江戸には公認の遊郭・吉原があって、美女といえば割とみな自然に遊女を思い浮かべていたようだ。吉原については、『吉原細見』などガイドブックも刊行され、どこどこ屋のなになにはどうだ、と評判が書かれていたので、実際目にしたことはないにせよ、みな美女については知っていたらしい。
もちろん浮世絵などの効果もあったそう。
とはいえ、そんな絶世の美女には、一般人はなかなかお目にかかれないのである。
そこで、大衆派アイドル・町娘ブームがおこる。
明和(1760年代頃)の三美人、寛政(1790年代頃)の三美人というのが特に有名だ。
明和の方は三人とも町娘、特に商家の看板娘たちだった。
一方、寛政の三美人の一人には、芸者が含まれている。
遊女と芸者というのは、一応別のものであった(一応、というのは、吉原においては厳密に区別されていたのだが、他の岡場所、つまり非公認の遊郭には客をとるものもあったそうな)。
芸者文化が熟成し、今私たちが思い浮かべるようなスタイルにまで整ったのは、江戸時代半ば~後半のことであるので、これは私見だが、おそらくこの寛政という時代以降、芸者たちがファッションリーダーとして一世を風靡し始めたのだと思う。
江戸の終わり頃から明治期にかけて、外国人向けに作られたブロマイドのようなものには、美しい芸者のものが多く残っている。
ということで、仮に江戸(の終わりの方)を、芸者の時代とする。

次に、明治。
明治の半ばへ来て、プロの――つまり、美しいことを職業の一部とする――女性たちから、今度は女学生に視線が移された。袴姿に編み上げ靴の明治っ子・海老茶式部たちが、町を自転車で颯爽と駆け抜ける姿に、みな新時代の香りを感じ取っていた。
明治40年にはついにプロ以外の女性を対象とした初めての美女コンテストが行われ、初々しい女学生が女王の座に輝くようになる。(余談:ちなみに日本初の美女コンテストの優勝者は、義経の母・常盤御前だとか。)
もっとも彼女たちは良家の子女たちであり、「○○家の娘ともあろうものが見世物になるなんて!!」と一族郎党から非難ごうごうで、見合いができなくなったりほとんど勘当されたりと日陰者扱いされて、大変な思いをしたそうだ。
明治の美女=女学生(ある意味、えらばれた人)とする。
ちなみに美術の世界では、西洋の写実的な絵画を目の当たりにし、それまでの日本の絵の価値観とはまったく別のものに画家たちが取り組み始めた時代でもあり、西洋のもの、日本のもの、と文化がまだ分かれていて、それをもとにちょっとした闘争があったりもした(ここいらの絵はいま、神奈川県立近代美術館・鎌倉館で名品の数々が見られます)。

そうしてようやく大正になると、大正デモクラシーの気風もあってか、市井の美女たちに視線がむけられていく。
つまり、美女=特定のひとではなく視野を広げ、町にあふれる美しいひとびと、の時代。
乙女向け雑誌が明治の終わりから大正にかけて次々と創刊されていき、女学生たちが同世代から少し年上の「おねえさま」たちに憧れ(時にその対象は、雑誌に載っていた音楽家など自立した美女たちであったりした)、夢見がちな瞳をその花のかんばせに浮かべていた。
その瞳を夢見心地にさせていたのが、叙情画と呼ばれ、画壇からはつまはじきにされていた、大衆画家たちであった。私の大好きな、ひとたちでもある。
また、画壇の片隅には、美人画という分野が生まれていた。これまた私の大好きなひとたちである。
美人画家と叙情画家。
おそらく彼らは、ある一定のラインを境にぴたりと隣り合っていて、ときにそのラインのどちらかにはみ出したりしていたのだろう。

で、ようやく脱線から戻る。
(飛ばし読みした方、おかえりなさい。)

この頃になるとカフェーの女給や教師、バスガイド、タイピストといった、職業婦人も現れてくる。
女性がとても元気な時代であった。
だからこそ、画家はそのエネルギーに突き動かされ、美人画というジャンルが誕生したのでは、とは、私の個人的な意見。
ちなみにこの時代はとても面白くて、江戸の浮世絵が西洋に流出してたとえばモネやゴッホに影響を与え、アール・ヌーヴォーやアール・デコといった芸術運動になって日本に戻ってきて、夢二や蕗谷虹児ほかに影響を与えている。
なんだか文化が、螺旋状に発展していくみたいだ。

先に紹介した美術展では、元気な女性たちに会える。
ただ元気なだけではない。
優雅で、しっとりとしていて、聡明そうな、素敵な女性が多い。
そしてもちろん、すばらしく美しい。
ご存知のように、戦争と戦争にはさまれた、つかの間の平穏ではあった。
しかしながら強く、しなやかに、彼女たちは画布の上に佇んでいる。
彼女たちを描いた一筆一筆に、画家の感じたエネルギーを凝縮させて。
蕗谷虹児展では、叙情画家の描く大正を。
大正シック展では、美人画家の描く大正を。
それぞれ、感じられる。

私が大正にひきつけられるのは、ひとえに、その力のせいなのかもしれない。
日本のいいところと、西洋のいいところが合わさって、独特の雰囲気をつくりあげた時代。
あの独特の雰囲気が、私を魅了してやまない。

(おまけ;以前にも少しだけ大正についてふれています →1:竹久夢二2:蕗谷虹児

|

« はなす筋肉、かく筋肉。 | Main | 四川先生、大陸へ。 »

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)




« はなす筋肉、かく筋肉。 | Main | 四川先生、大陸へ。 »