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August 20, 2006

短編小説「竜宮の夢」1

 仕事の帰り、私はいつも立ち寄る古本屋に足を向けた。
 神田にあるその店は、家への帰路からもそう外れないため、時折通っている。私好みの蔵書が多く、その日は特に目当てにしている一冊があった。一月の空気はまだきりりと冷たく、夕に向かって更に張り詰めている。役所勤めを始めてから袖を通した洋服も、体にぴっちり添う割りに寒い。洋装は、いまいち私の好みではない。私は襟巻きを鞄から出して手早く巻きつけた。早めに仕事を引けると同僚からは女かなどと揶揄されたが、私に言わせれば、女などよりずっとずっと良いもの、である。
 女は口やかましく、手も金もかかる。
 母親が柳橋の芸者だったせいか、私にとって女と金は切っても切れない縁のように思えてならない。乾物屋を営んでいた亡き父は衣裳代のために働いたようなものだと、口さがない者たちは言う。父亡き後、店を畳んだのもそういう噂の流れる原因だったかもしれない。それ以外では概ね良妻賢母であった母も、芸者時代の名残かもともとの気質なのか、衣裳にだけは財を惜しまなかった。その母を見て育った妹も幼い時から着道楽で、そのせいか、見合いを重ねてはいるのだが、なかなか嫁入り先が定まらない。当たり前である。父親似の妹には、散財するのが目に見えてまで欲しいと思われる器量もない。
 そういう経緯があり、私は女性というものにいまひとつ興味を持てないでいる。見合いの話も断り続けている。確かに職場でも三十を過ぎて独身なのは私ひとりである。いつか所帯を持つことは考えているのだが、私が思い描くような女性は、少なくとも私の人生においてはまだ現れていないのだ。
 ガラスのがらり戸を開けると、紙の湿ったような埃っぽい、独特のにおいに包まれる。古本屋の親爺はじろりとこちらを見たきり、また手元の本に目を落とした。足繁く通っているのだから挨拶くらいしても良さそうなものだが、親爺は一切しない。私だけではない。他の客にも同じである。客商売とは御世辞にも言えないこの偏屈な親爺は、私の気に入りでもあった。客の来訪を喜ぶわけでもないが、何時間そこにいても文句一つ言わない。思う存分に本との逢瀬を楽しめる、私にとっての楽園とも言える場所であった。
 本はいい。何よりも、静かである。静かで、こちらに必要な時に手を貸してくれ、知識がぎしりと詰まっているのに、ひけらかすこともしない。それぞれの本に、固有の空気があるのもいい。
 目当てにしていた本は、まだ売れずに私を待っていた。煤けたような紙箱のケースに入り、油紙に包まれてじっと私を待っている。一度手にとって愛でてから、書棚に戻した。また他に客もないことだしと安心して、まずは新しい本との出会いを楽しもうと書棚を物色していると、がらり戸の開く音がした。
 「やあ」
 「おや、いらっしゃい」
 驚くべきことに、その客はあの偏屈親爺をして微笑せしめた。私と同じか少し上くらいの、若造である。スタンドカラーのシャツの上に、ウールの長着を着、その上に古めかしいフロックコート。女物の襟巻き。なんともちぐはぐな格好である。
 「親爺さん、この間の、あれ、あるかな」
 「もちろん、巽(たつみ)さんのためにとってありますとも」
 そういうと親爺は、あの、私が今日買って帰ろうとしていた一冊を書棚から引き去り、男に手渡した。男は代金を払って本を懐にいれるとそのまま店を出た。
 私は急いで店を出て男を追った。妙な格好をしている癖に、足はめっぽう速く、見る間に男の背は小さくなっていく。やがて人ごみに紛れて男の姿が見えなくなる頃、私は肩で息をしていた。あの本を取り返そうとしたわけではない。彼が非合法に奪ったわけでもないのだ。追ってどうしようという考えもなかった。なのに、私は彼を追いかけずにいられなかった。立ち止まって壁にもたれ、誰にともなく畜生と呟いた。
 「それは、俺に対してかい」
 肩越しに声がして振り向くと、隣にあの男が立っていた。
 「追いかけてくるからには、それなりに理由があるんだろう。だが俺は、君に畜生などと呼ばれるような悪行を働いた覚えはないのだが」
 何も言えずにいると、男は全てわかったような様子で、ついてきたまえと言い、今度はゆっくりと歩き始めた。私は是も非も言えず、男の促すままに後を付いていった。男は、巽と名乗った。人の世の研究をしているのだと言うから、学者か何かなのだろう。橋を越え路地を何本もくねくねと入りゆるやかな坂を上ったり下りたりした。神楽坂の辺りだろうか。急勾配を上ると、緑に囲まれて二階建ての瀟洒な洋館が聳えていた。水色の壁、塔のように聳える六角のテラス、緑青(ろくしょう)で縁取られたガラス窓。
 「入りたまえよ」
 巽が振り向いて私に声をかけると、門が一人でに開いた。巽自身が開けるでもなく、誰かが開けたわけでもない。不思議に思うのはそれだけではなかった。玄関の扉や窓、襖にいたるまで、その家の中ではどれも、通らんとする時、開けんとする時にひとりでに開くのだ。見たところ、からくりがあるわけでもないようだ。
 私が驚いているのをみると巽は満足そうに鼻を鳴らし、通りすがりの一階の窓を全部開けた。新しい窓が開く度に冷やかな風がひゅうと入り込み、私たちに絡みつくように思えた。一階の長い廊下の突き当たりにある階段を昇る。くすんだ海(み)松(る)色のビロウドは、靴下の上からでもふかふかと柔らかく、足を繰り出さなければずぶずぶと沈んでいってしまいそうに思えた。階段を昇りきると風を切るような音がして、襖が一斉に開け放たれた。外観からは想像もできないが、畳敷きの部屋がいくつも並んでいた。
 「当世風だろう、洋風建築の中に和室とは。いわゆる文化住宅の逆だがね。新しい昭和の気質にはぴったりだと思わんか」
 十二畳はあろうかという広々した部屋に通されると、巽は軽く手を叩いた。すぐに錦紗(きんしゃ)の着物に前掛けをしたカフェーの女給のような女たちが、酒と肴の乗った膳を据えて去っていった。あまりにすばやい身のこなしは風のようでもあった。
床の間には色褪せた掛け軸がかかっている。年も明けたのに秋草の図である。おそらくは名のある画家の筆だろうと思われた。格調高い表装と色褪せた絵、それに時節に合わぬ画題が、巽の服装のようにちぐはぐである。私は今更ながら、どうしてこんな男についてきてしまったのだろうと自問していた。巽はコートを脱ぎ襟巻きを外し、私を正面から見据えて、懐から例の本を取り出した。
 「つまるところ、君はこれが目当てで私を追ってきたのだろう。どうだい、君がこの本を欲しいというのなら譲ろう。お代も結構。ただし、この本の中に挟まっているものは、私がとるという条件付だが」
 「中?私が見た時にはそんなものなにもなかったぞ」
 巽は薄笑いを浮かべて、本を紙箱から取り出し、中を開いた。パラパラと音を立ててめくられていくページは、そのうちひとつの見開きで動きを止めた。何が挟んであるわけでもないのだが、巽は恭しくそこからなにかをつまみ出し、私の顔の前に突き出した。手つきからすると、紙のような薄いものに思えた。
 「見えないかい?」
 「見えない。からかっているのか?」
 「とんでもない。見えないのなら勿体無い。君に必要のあるものではないのだろう。やはり俺がもらっておくことにしよう。異論はないね」
 私は頷いたものの、巽がつまみだしたものの正体が気になって仕方なかった。それを知ってか知らずか、巽はそれを丁寧に膳の端に置き、私を見た。
 「教えてさしあげよう。これはね、異国の魔術の書いてある紙なのだよ」
 「魔術だ?そんなものがあるわけないだろう」 
 「君は見ただろう、扉や窓がひとりで開いたのを。あれを魔術と言わずしてなんと言うのか」
 もっともである。しかしあの本は、魔術などという怪しげなものに関わりのある本ではなく、明治の文人の随筆本だったはずである。
 「君が指先でつまんでいるものが現実にあるとして、それが魔術だとしたら、どんな魔術だというんだ」
 「知りたいかい?」
 巽の目が光ったように見えた。
 「ここに書いてある呪文を、そのまま君の目にも見えるようにしてさしあげよう。君はそれを声に出して読んでみればいい。どんな魔術かわかるだろう」
 どんな効果があるのかもわからないのに、その魔術をかけるというのはあまりにも危険なように思う。しかしながら、ここでひいては男が廃るというものだ。私は自分を豪気に見せようと、二つ返事でそれを受けた。腹の中では当惑と不安が渦を巻いていた。
 杯を一気に飲み干すと、巽はもう手に短冊を持っていた。ひと文字ひと文字読んでいく間に、意識がぼんやりとしてきたこと以外、私は何も覚えていない。

※いかなる理由においても、この作品を無断で転載・放送・複製することを禁じます。

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