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August 23, 2006

短編小説「竜宮の夢」4

 昼過ぎまで私は神楽坂界隈をぶらぶらと歩き、川沿いにまた神田へ戻って、いつもの家路を辿った。巽の言う可能性の世界を考えると頭がくらくらした。例えば今ここで過ごしているこの世界は、私のもともとの世界とはどこかが違う別の世界なのかもしれない。可能性の世界にはきりがない。どこからが可能性の世界でどこまでがもとの世界なのか。どこにそれを区別する境界線があるのか。ゆるやかに連結するそれらの世界の中を、私はどうやって生きていったら良いのか。考えるにつけ、頭痛がする。
家につくと、妹が目ざとく羽織を見つけて騒ぎ出した。それもそうであろう、女気のない男が突然に女物の羽織を持ち帰ったのだ。妹に引き出されるようにして、奥の間から母が出てきた。
私は固唾を飲んだ。確かに目の前にいる母は、あの梅吉の面影を残していた。正面から母を見つめることが出来なかった。
「あら、この羽織…」
母は羽織を手に取ると、目を細めてひとつひとつの柄ゆきを確かめた。
「この羽織、私が昔神楽坂の御屋敷に勤めていた頃に失くしてしまったものに良く似ているわ」
「神楽坂?お母さまは柳橋にお勤めだったのでしょう」
 「お前たちのお父さまに会う前、一年だけ、神楽坂のある御屋敷に専属で雇われていたの。不思議な家でね、いつもお留守なのにひっきりなしにお客が来るから、もてなし役に呼ばれたのよ。ご主人は今のお兄さんくらいのお若い方だったわ。シャツの上に長着を着て今時分ならフロックコートに女物の襟巻きと、珍しい格好の方だったのよ」
 私は巽その人を思った。あの男は、この世界の人間なのだろうか。昔の世界から、あるいは先の世界から来たのではなかったか。少なくとも私が昨日今日と会っていた巽本人は、母が三十数年前に出会っていた巽その人と同一の人物らしい。
 「これはその一風変わったご主人が、良い運を運んでくれるからとくださったものでね。そういえば、これを失くした頃に、変なお客がいたわ。泊まっていったのに朝ごはんも食べないうちに帰ってしまって。誰もその人の帰るのを見なかったから、狐じゃないかと噂になってね。不思議なことに、その後にお父様に出会って…そういえばあのお客はお父さまに少し似ていたわね。だからお父さまに会った時に他人の気がしなかったのかしらね」
 似ているだろうとも、それは父との間に生まれた、私なのだから。その後母は、またいつものように私と妹に縁組の話をいくつも切り出し、なかの一つを強引に進めることにした。以前はこのような母の仕業には辟易させられたのだが、今はそれも息子の義務のようにも感じる。あの夜感じた、若き日の母への思いに似たものを感じさせてくれる相手にめぐり合うことを、今では私自身待っているのだ。

 あれ以来古本屋に行っても、巽には会わない。店の親爺に巽のことを聞いてみたが、いつともしれず来る客で、時折貴重な本を持ちこんでくること以外、何もわからぬという。神楽坂の界隈を何度も歩いてみたのだが、あの家にはついぞたどり着けない。
 私は、巽のいない世界に帰って来てしまったのか。それとも彼自身がそれを選んで、私のいない世界に行ってしまったのか。そもそも、彼は私たちと同じような、人間であったのだろうか。巽は、竜宮に住まう竜だったのではないか。不可思議な一夜に、私はそんな思いを抱かざるを得ない。
 もう一度巽に出会えたら、今度はゆっくりと、彼の話を聞きたいと思っている。そして、結婚の報告をしようと思う。

       (結)

※いかなる理由においても、この作品を無断で転載・放送・複製することを禁じます。

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