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December 26, 2005

浦島翁 【俄病人入院期2】

つねづね着物で過ごすことが多くなった私は、今回の入院に当たっては3着の浴衣を用意した。どれも紺地に白の昔ながらの浴衣である。古いものなので、生地はころよく柔らかくなっていて肌触りがとても良い。
手術を勝負事に見立てて尚武すなわち菖蒲の柄をひとつ。
薬が良く「効く」ようにと菊の柄をひとつ。
病が早く軽くなるようにと舞蝶の柄をひとつ。
…というと用意周到に聞こえるが、これは入院してから気づいたこじつけで、最初からそんな語呂を考えていたわけではない。古い浴衣を準備していたら、たまたまそんな語呂遊びができたというだけである。

今時分、浴衣で入院する者などないらしく、私はなんだか目立っていたようである。
ある日、ついにナンパをされた。
病院のナンパの流儀というのは、病状聴取で、しかもその場所は共同の洗面所だったりする。
歯磨きの帰りなどに「どこが悪いの?」などと話しかけられるのだ。
私もそろそろ30である、ナンパされなくなって早何年は経過している。諸氏は嬉しかったでしょうというであろう。しかしながら、その相手が80過ぎの殿方ともなれば、趣も違うものである。

彼の目は大きく、白い頭髪は頭側部を周回して明るい頭頂を補い、いつもへの字口で、しょぼしょぼと歩いている。玉手箱を開けたあとの浦島太郎はこんな風であろうか、と思われるような風体の老人なのである。

共同洗面での一件以来、浦島翁は廊下で会っても手招きをして私を呼ぶ。何度も主治医を聞く。翁の主治医も教えてくれる。「腕がいい先生だから大丈夫だ」と何度も言っていた。
浦島翁と良く会うのは、面会ホールにある自動販売機の行き帰りであった。私の部屋、翁の部屋、面会ホールという並びのせいなのかもしれない。手術後の流動食に出た豆乳が気に入って、私は日に3度豆乳を飲んでいた。
かつて飲んだことのあるどんな豆乳よりも甘くて、青臭さもなく、さらりとしているのである。これは農業界の大革新に違いないと大いに気に入って毎日3度4度と飲んでいたのだが、5日目に加糖してあることが判明した。少々悲しいような気にもなったが、どうであれ旨いので、相変わらず退院まで毎日飲んだ。

後から本人に聞いたのだが、浦島翁は声帯の癌なのだそうだ。声帯のポリープを数年放置して煙草を吸い続けてそうなったのだという。翁は「あんたの旦那さん、煙草、吸うかい?」と聞いた。私が首を横に振ると、「じゃあいい。じゃあ大丈夫だ」と言った。翁の声は、病気のせいなのか息がもれたような音ばかりで、よく聞き取れない。
癌と聞くと、なんだか神妙な気持ちになって、度々の手招きに応じて何事にもウンウンと頷いた。

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