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August 04, 2005

掌編小説 夏燕〔2〕

 目も冴えてしまったので、わたしは寝間着のまま書斎へ降りて、何もつけない細筆で木を撫でてみた。絵の具をつけていないはずなのに、白い軌跡がいくつもできた。よくよく見てみると、筆の軌跡がほのかな光の筋になって残っているのだった。光はところどころにできる線をのぞけば、すうと木の肌に馴染んでいった。繰り返しているうちに線はつながり、花と、葉のような形が見えてきた。
 夜のしんとした気配は、筆を進ませた。わたしは時間を忘れて絵に没頭した。
 つながった線をさらに上からなぞると、線は自ら動き出して形を整え、輪郭線になる。線が整うごとに、香りは強くなってくるようであった。筆を少し太いものに変えると、今度は色が自らにじみ出て、絵を染め上げる。考えたような色合いが、欲しい色がいつもそこに現れた。葉の上の微妙な光の影も、花弁の奥行きも、面白いほどに生まれた。そうして、絵は出来上がった。
 白い皐月の花だった。
 絵からは、今まできいたことのない甘い花の香りが漂っていた。

 部屋に差し込む光は少し明るさを増していた。もう朝かと窓を開けると、家の外はまだ暗い夜のさなかで、燕の子も眠っていた。しかし家の中は、明けの空ほどの明るさに照らされている。近寄って絵をじっくり見ていると、すぐ後ろに藤御前が立っていた。
 …どうやら仕上がったようじゃな。ほう、これはみごとな馬じゃ。
 これほど見事な白毛馬を奉納すれば水神も雨を止めてくださるだろう。絵師殿、良くやってくれたのう。
藤御前が絵を手に取ると、皐月は木片から浮き出て手のひらに納まり、そのまま白馬に姿を変えた。
 午の月に馬の奉納とは、水神もさぞかし喜ばれますな。姫の病も必ずや癒えましょう。
 燕たちが両側から白馬に触れると、白馬は御前の手のひらを蹴り上げて、窓の外へ空(くう)を駆けていった。

目を醒ましたのは、昼近くだった。
雨はあがり、燕の子らが啼き、親鳥が餌とともにひと房、咲きかけの藤の花を咥えて巣に戻った。つい先日生まれたばかりと思っていた燕の子が、もう巣から飛び立とうと羽ばたいている。不思議に思って見やると、暦はひとりでに七日ほど進んでいた。
 縁側に座り、久しぶりの青空を見上げていると訪ねてくる人があった。
 この先の家のものですが、娘の婚礼披露に参りました。
 上品な婦人が、後ろに白無垢姿の花嫁を従えて玄関口にやってきた。初対面のはずであるのに、どこかで会ったような感覚がした。誰かににているのかもしれないが、それが誰なのかよく思い出せない。
 今晩祝いの宴を催しますので、どうぞいらしてください。屋敷はこの先の鎮守の横でございます、お越しいただければすぐにおわかりになります。
 夕闇に包まれた頃、小さな神社に出た。参道の藤棚には花が咲き始めている。境内近くのとりわけ大きな藤だけは満開で、美しい花穂を地の淵に垂らしていた。
藤を見上げていると、燕尾服を着た青年に声をかけられ、藤棚横の建物の大座敷に案内された。
座敷には大勢の客が招かれていた。中央には新郎新婦が座り、親族らしい人たちが客の間を酌にまわりして賑っているものの、どこか人間くささを感じさせない。運ばれてきた膳には藤の花穂の天麩羅、藤の花の和え物、花入りの豆腐、藤の若葉の佃煮が据えられ、花の香りがする酒とともに食事に興じた。いままできいたことのない香りなのに、懐かしさを感じさせた。
 ほろ酔いに、参拝して帰ろうとすると、社殿の横には夢に出てきた白馬そっくりの真新しい絵馬が飾られていた。振り返れば、藤棚の横には道も建物もなく、藤蔓で編まれた暖簾の上を燕が二羽飛んでいくところであった。

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Comments

なんと、この前、藤の花の天ぷらの
写真を見たばかり・・・

なんと優雅な食べ物だろう、と
眺めていました。

ら、このお話・・・・・

絵師が何もつけていない筆を
動かしていると・・・
などというところは圧巻でした。

いつものことながら、
いいお話、ありがとうございます。

Posted by: fj | August 05, 2005 at 02:46 AM

それは嬉しい偶然!

藤は、食用花の中でも1、2位を争う美味しい花なのだそうです。
一度食べてみたいものです…

Posted by: zok | August 06, 2005 at 10:44 AM

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