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August 23, 2005

掌編小説 蛍草〔1〕

 夜になると、河鹿の鳴き声がかすかに聞こえてくるようになった。
 大家の婆さまからいただいた三年ものの梅酒をちびりちびりとやりながら、河鹿の声に耳を澄ます。河鹿が住むような川がこの辺にあったろうかと思い巡らすが、引越してきて以来、自分の用足し以外の道を歩いたことはなく、頭の中にそんな場所を描けるはずもない。
 このところは婆さまの紹介だと言ってやってくる女性を何枚か描いたお陰で、暮らしに若干の余裕も出た。こうも立て続けに客がやってくるのは、絵の腕を磨けという婆さまの思し召しでもあるようだ。ありがたいことである。もっとも、婆さまにとってはこちらの感謝も目算のうちらしい。絵描きという条件で店子を探していたのだから。おおかた、抱えている芸妓たちの売り出しにでも使っているのだろう。婆さまの真意はわからないが、そのお陰でこうしてのらくらと過ごせるので、ありがたいと思う。
 女たちは、わたしをうたさん、と呼んだ。婆さまがわたしをそう呼ぶからだ。女を描く絵描きといえば歌麿で、女性だから平仮名で「うた」なのだそうだ。
 徳利に梅酒が尽きたので台所に立ち、ついでに冷蔵庫から枝豆を出してテーブルに置く。茹で上げてから時間がたったせいか塩味が少し強くなっていて、肴には具合がいい。鞘のまま口の中に入れ、歯でしごいて豆を取り出し、青くて甘い風味を味わった。
 河鹿の声がつと止んだ。
 不思議に思って障子をあけると、うちの濡れ縁に腰をかけて、青い浴衣姿の見知らぬ婦人が団扇で蛍を追っていた。
 わたしに気づくと婦人は軽く会釈をして、うす笑みを浮かべたままじっとこちらを見ている。なにかを確かめるような目は、夜の闇に似てくろぐろとして、襟元から覗く白い肌が妙に艶めかしく暗がりに浮かんでいた。婦人は押し黙って私を見つめつづける。

 あの、なにかご用でしょうか。
 …ああ失礼。うたさんてのは、あんたのことかい。美人画をやる絵師殿と聞いてたから、あたしったら、てっきり助平な殿方だろうと思っていてね。まさか年端もいかないお嬢ちゃんが絵師殿とは思わなかったんで、びっくりしたのさ。

 婦人は後れ髪を直す仕草をして一瞬の間をおくと、上目使いに私を見ながら堰を切ったように話し出した。
 お嬢ちゃん、などという呼ばれ方から離れて久しいので、面食らってしまう。わたしのことを年端もいかないなどと言っておきながら、その婦人は、どう見てもわたしと同じ年か、せいぜい二つ三つくらいの年上、三十路の前半に見える。

 まあ、男でも女でも関係ないか。腕の良さはお墨付きだものね。あたしは露っていうんだよ。あたしの似顔を描いてほしいのさ。うんと美人にね。あんたに描いてもらうと美しくなるって、姐さんたちが大騒ぎだよ。あたしもそれにあやかろうと思ってね。

 どうやら、先だっての女性達のことを言っているらしい。とはいえ先日の女性達、この露という婦人よりは皆随分と若かった筈である。芸妓の世界では、年齢ではなくて弟子入りの順に、姉妹関係になっていくのかもしれない。
 わたしは快く引き受けることにした。幸い、注文の絵は全部仕上げたばかりで、明日からの予定は入っていない。
 露さんは喜んで、早速濡れ縁から庭先に降りると、日舞の時のように少し腰を落として団扇を構えた。いくつかポーズをとって、気にいらないねぇと呟く。いつもはどうしているのかと聞くので、一番好きな景色や物を思い浮かべてもらうんです、というと露さんは目を輝かせた。

 どうせなら蛍が飛ぶ中がいいねぇ。うたさん、絵描き道具を準備しておいでよ。

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